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当連盟について

about
目的

この法人は、本邦の大学ソフトテニス競技団体を統轄し、ソフトテニスの競技力向上及び普及を図ることにより、学生の心身の健全な発達と豊かな大学スポーツ文化の振興及び社会の発展に寄与することを目的とする。

事業

この法人は、前条の目的を達成するため、次の事業を行う。

  • ソフトテニスの普及及び振興に関する事業
  • 学生ソフトテニス大会の開催に関する事業
  • 加盟団体が主催する大会の支援に関する事業
  • 国際的なソフトテニス大会への参加及び協力に関する事業
  • 指導者及び審判員の育成のための講習会、研修会の開催に関する事業
  • ソフトテニスに関する調査研究に関する事業
  • その他この法人の目的を達成するために必要な事業
法人概要

・住所:〒131-0031 東京都墨田区墨田2-34-9 
TEL:03-6429-7866 / FAX 03-6429-7867

組織

■ 加盟団体

公益財団法人日本ソフトテニス連盟の傘下団体であり、全国に9地区学生連盟・5支部学生連盟があります。

組織

■ 運営組織図

運営組織図
日本学生ソフトテニス史

明治の初期に外国の公使館員や宣教師たちによって西洋から持ち込まれたローンテニスあるいは、それ以前のテニスに似たものがわが国でプレーされていたようである。

(前史時代)明治初期~30年頃
明治初期 外国の公使館員や宣教師たちによって西洋から持ち込まれたローンテニス、あるいは、それ以前のテニスに似たものがわが国でプレーされていたようである。
明治17年 坪井玄道氏がたいそう伝修所に来任されたころには既にラケットが備えられてあり、その後、生徒たちのもっとも愛好するゲームとなった。しかし、硬式のボールは輸入することが難しくかつ高価であったために、ゴムボールを使用したテニスが当時流行っていた。当時のボールは青馬印がついていて、ドイツ製であったといわれている。
(創造・普及時代)明治30年~40年
明治30年頃 日本のゴム産業界は競ってゴムボールの製造に乗り出し、なかでも三田土ゴム会社はゴムボール(赤Mボールの前身)の製造にたいへん熱心だった。
明治31年末 東京高師と東京高商との間で日本初の対抗テニス試合が行われ、以後毎年両校の定期試合が開催された。
明治35年春 東京高師の主催で初めて東都12校の連合テニス大会が開かれた。
明治37年秋 第1回の早大対慶大の庭球試合が催された。かくして東京では早、慶、高師、高商の4校の混戦時代となり、名手が続出し、帝都の人気を沸かせた。また陣形の変革、戦法の工夫、規則協定が行われた。
明治38年春 京大は上京して東大と第一回の定期庭球試合を行った。
明治39年 慶大が検討中学校庭球試合を主催した。また神戸高商が上京して東京高商と定期試合を行った。
明治39年末 早大が初めて関西に遠征し、全勝しこれが刺激になり、関西での庭球の発展に大きく寄与した。早大対全大阪の試合に番外として堂島高女のオープンゲームが行われたが、これは本邦最初の女子の公開庭球試合の始まりとされている。
(第一次黄金期)明治41年~大正8年
明治41年夏 毎日新聞社主催で第一回関西中学校庭球試合が大阪浜寺で行われた。これがトーナメント形式の大会の始まりであるといわれている。この大会は後に全国中学校大会に発展した。
明治42年~48年 慶大は第二回の関西遠征を行い、3校と引き分けて大阪クラブに敗れた。
(学生軟球衰退時代)大正9年~昭和2年
大正9年 関東の東京高商、東京高師、早大、明大、東大などが一斉に硬球を採用した。
大正10年 京大、神戸高商、関学が、庭球部をあげて硬球に転向したので、大学高専の軟球は急に衰退した。しかし社会人クラブは俄然奮起して高専に代わり大活躍を開始した。
大正11年 京大主催の全国高専大会は第十二回をもって終わりを告げた。
大正13年 東京軟球協会は日本軟球協会と改称し、第二回全日本男子軟式庭球選手権大会を開催した。
大正14年 第二回明治神宮大会に軟式庭球種目が設けられた。一般男子の部以外にも女子の部も設けられた。
大正15年 第三回明治神宮大会には、シングルス競技も設けられた。
(第二次黄金期)昭和3年~15年
昭和3年 再発足した日本軟球連盟の主催で、7月に第一回全国高専庭球選手権大会(ダブルスとシングルス)が開催された。10月には全日本軟球選手権大会も開催された。また、同年、関西学生軟球連盟が結成された。
昭和4年5月 関西学連、関東学連が中心となり、日本学生軟式庭球連盟を設立した。
昭和5年春 第九回極東競技大会にオープンゲームとして、軟式庭球が行われた。
昭和6年 第六回明治神宮大会には、一般男子、中等学校男子、一般女子のほかに大学高専の部も設けられた。
昭和8年4月 日本軟式庭球連盟が設立された。また、従来の交互サービス制を廃止した。
昭和9年8月 日本軟式庭球連盟は、各種選手権競技大会を網羅した第一回伊勢神宮大会を開催した。大学高専の部は選手権競技と東西対抗競技を行った。
昭和12年8月 伊勢神宮大会と切り離して日本軟式庭球連盟主催の全日本選手権大会を開催した。府県支部から3組ずつ参加した。
昭和12年11月 関東、関西、挑戦の大学高専の三部対抗戦が開かれた。
昭和13年 支那事変の影響により原料である生ゴムの配給が許可制となり、次第にボール不足となり競技力の低下をきたした。
昭和14年5月 日本軟式庭球連盟は、大日本体育協会に加盟した。ここにおいて、これまで「庭球」「軟球」「軟式」「ゴム式テニス」と呼ばれていたこのスポーツの呼称が、「軟式庭球」または「軟庭」に統一された。
昭和15年 東亜競技大会軟庭の部、第十四回伊勢神宮大会などで学連選手は目覚しい成績を収めた。全日本学生東西対抗には安井厚生大臣から優勝旗が下付された。明治神宮大会には従来の朝鮮、台湾、満州の他、北支、蒙古もあらたに参加し、軟庭の出場選手は2,200名にのぼった。
(第二次衰退時代)昭和16年~20年
昭和16年 学生生徒のよる全国大会の開催が禁止され、明治神宮大会が軟庭界唯一の全国大会となり、学生はその一般男子の部に繰り入れられた。
昭和17年 大日本体育協会と大日本学徒体育振興会が結成され、日本軟式庭球連盟と日本学生軟式庭球連盟はそれぞれ傘下に入った。第五回伊勢神宮奉納大会、第十三回明治神宮国民練成大会が開催された。
昭和18年 軟庭はテニスや野球とともにスポーツの英語呼称が日本語呼称になった。カウントの呼称なども「スリーワン」ではなく「サン対イチ」、「アドバンテージ」は「勝ち越し」、「ジュース」は「延長」と日本語呼称となった。その後は戦争激化のため球技はほとんど行われなくなった。
(再建時代)昭和21年~30年
昭和23年 糸川鉄也氏ご退任の後を受けて、岡本愛裕氏が日本学生軟式庭球連盟会長に就任した。
昭和25年 日本学生軟式庭球連盟主催の全日本女子学生選手権大会に初めて三笠宮賜杯が下賜された。全日本学生男子選手権競技に三笠宮賜杯が下賜された。
昭和27年 全日本大学対抗女子の部が始まった。大学男子の部、女子の部に岡本支部大臣から文部大臣杯が下付された。日本学連は従来の7回ゲームを改めて男子、女子とも9回ゲームを採用することとした。8月、奈良県橿原市における第七回全日本学生選手権大会に初めて三笠宮殿下が台臨された。
昭和28年 上田市での第八回学生選手権大会に三笠宮妃殿下杯が下賜された。
(日本学連発展時代)昭和31年~現在
昭和31年10月 第一回アジア軟式庭球選手権大会が台北市及び台中市で行われ(男子のみ)、団体、個人とも日本が優勝したが、学連出身の選手が大活躍をした。
昭和32年 日本学生軟式庭球連盟規約その連盟の規定を整備し、東・西日本学連、13地区学連の制度を確立した。
昭和33年 全日本学生シングルス選手権大会が始まった。シングルスは7回ゲーム制とした。第13回学生東西対抗戦は初めて大阪府立体育館でインドアの競技となった。
昭和34年 東西学生リーグ王座決定戦が関東リーグ優勝校と関西リーグ優勝校との間で始まった。
昭和35年 第十五回学生東西対抗戦から、男子の部12組ずつ、女子の部10組ずつの対抗とし、それぞれ4名以上は東京学連、京阪神学連以外から選抜することとした。
昭和36年 中華民国の大学選手が小田原市での第16回全日本学生選手権大会に出場したが、男子は5回戦、女子は4回戦に進出するにとどまった。
昭和37年 第17回全日本学生選手権大会から、男子、女子とも準決勝戦以後は原則として7回ゲーム3セット制をとることとした。9月、韓国ソウル市での第4回アジア大会では男子の部に学連現役選手5名が選抜され、団体戦、個人戦での日本の優勝に貢献した。10月、韓国農協銀行チーム女子5組を迎えて試合を行ったが、学連女子は全勝した。
昭和38年8月 韓国男女代表選手団を迎え、日本学連チームは男女とも5組ずつの対抗戦に全勝した。
昭和40年8月 上田市の第20回全日本学生選手権大会の開会式に三笠宮殿下が台臨された。また、最終日に皇太子殿下をお迎えした。
昭和40年9月 台北市での第5回アジア大会出場の日本代表選手として、日本学連現役選手男子6名、女子4名が選抜された。
昭和41年 全日本学生東西対抗競技大会に勝ち残った組により最優秀組決定戦を行い、男子の部、女子の部に厚生大臣杯が下付された。
昭和42年 5地区学連を増設し、18地区学連となった。
昭和42年12月 第1回全日本学生インドア選手権大会を東京体育館で開催し三笠宮殿下が台臨された。なお、この大会に厚生大臣杯が下付されることになった。また、第一回全日本社会人・学生対抗インドアソフトテニス大会が開催された。
昭和43年 1地区学連を増設した。また、8月に札幌市で開催した第23回全日本大学対抗選手権大会に三笠宮、同妃両殿下が台臨された。この大会の男女決勝戦はカラーテレビにより1時間全道に放映された。10月、東京で行われた第7回アジア大会に学連男子選手が個人戦で優勝し、女子選手も女子団体優勝の主力となった。
昭和44年 東・西リーグ王座決定戦を関東・関西王座決定戦と名称が変更になった。
昭和47年1月 東京体育館で開かれた第5回全日本学生インドア選手権大会は入場者6,000名を超え、三笠宮、同妃両殿下が台臨され、男女決勝戦はカラーテレビにより1時間全道に放映された。また、全日本学生インドア選手権大会に総理大臣杯が下付された。
昭和52年 第2回世界選手権大会には日本選手団団長を石渡会長がつとめ、男子選手8名は学連OBと現役で占め優秀な成績を収めた。
昭和53年 石渡悦郎氏が名誉会長に、田坂請喜氏が会長に就任した。
昭和56年 関東・関西王座決定戦が他地区学連の台頭により発展的解消して、9地区代表により、第1回全日本大学リーグ王座決定戦が行われた。
昭和57年 第1回アジア学生選手権大会が中華民国の台南市で行われて日本は女子が優勝した。昭和57年現在、加盟校は565校、登録選手は10,000余名を数えた。
昭和58年 田坂請喜氏が名誉会長に、安友省三氏が会長に就任した。
昭和59年 第2回アジア学生選手権大会が大韓民国ソウル市で行われた。
昭和61年 第3回アジア学生軟式庭球選手権大会が東京都駒沢体育館にて行われ、男子が個人優勝、女子が団体優勝した。
昭和62年 安友省三氏が名誉会長に、倉田裕司氏が会長に就任した。
昭和63年8月 山形市(蔵王)で行われた全日本学生選手権大会の開会式に三笠宮寛二殿下、同妃両殿下が台臨され、殿下のよる始球式が行われた。
平成4年 4月1日より競技名称が「軟式庭球」から「ソフトテニス」へと改称され、「日本学生軟式庭球連盟」も「一般社団法人 日本学生ソフトテニス連盟」と改称した。
平成5年 1月1日に「ソフトテニス国際競技規則」が制定され、競技規則が改正された。
平成11年 4月1日より日本連盟で競技者登録制度が実施され、学連は加盟大学513大学(男子264校、女子249校)登録選手は6,236名(男子3,994名、女子2,242名)であり、前年比登録大学20校減、選手246名減は世間一般で言われている「少子化」の影響が現れはじめた。
平成13年 省庁再編のため、全日本大学対抗選手権大会に下付されていた、文部大臣杯が文部科学大臣杯となった。
平成15年 ソフトテニスの国際化に伴い、全日本大学選抜王座決定戦に大韓民国男女各1チームを招待した。
平成16年 競技規則が改定され、4月1日より「ソフトテニスハンドブック」が施行された。12月、第44回全日本学生東西対抗戦が16年ぶりに復活し、大阪市で行われた。
平成17年 大韓民国の全国大学秋季庭球連盟戦に全日本大学王座決定戦優勝校の男子が参加し、優勝した。
平成18年 大学王座の大会名を「全日本大学ソフトテニス王座決定戦」に改称し、大韓民国にくわえ、中華台北からも男女各1チームを招待し行われた。
平成23年 倉田祐司氏が名誉会長に、表孟宏氏が会長に就任した。
平成26年 平成16年(2004年)より復活していた全日本学生東西対抗戦の開催が見送られた。
平成28年 小原信幸氏が会長に、表孟宏氏が相談役に就任した。
王座決定戦の男子がダブルス3、シングルス2になった。
令和3年 小原信幸氏が退任し、佐野寛氏が会長に就任した。
令和5年 一般社団法人日本学生ソフトテニス連盟に移行。